ヨーロッパに先駆けた日本の「噛める入れ歯」とは?

ヨーロッパに先駆けた日本の「噛める入れ歯」とは?

「噛める入れ歯」までの遠い道のり

入れ歯と歯科の世界史<古代編>」でもご紹介しましたが、古代ヨーロッパには入れ歯と呼べるものがありましたが、その主な目的は、見た目を回復するためのもので、噛む機能という観点からすると、あまり役に立つとは言えないものでした。
入れ歯らしきものはあっても、それを固定するためには健全な歯が残っていなければなりませんでしたし、残っている歯が少なくなってしまうと、普通に食生活を送ることは困難だったのです。
今でいう「総入れ歯」と呼べるものは、18世紀頃になるまで例がなく、まして、「噛める総入れ歯」ともなれば、19世紀にならないと実現できなかったのです。

日本独自の入れ歯「木床義歯」

ところが、驚くべきことに、日本で、すでに16世紀には、現代の総入れ歯と同じようなものが実用化していたのです。
「木床義歯」というものがそれです。
これは、ツゲの木などを彫刻して、上下のあごの粘膜にぴったりと吸着するように仕上げたものです。
木床義歯が、三重県四日市でが出土したのは1999年のことです。
江戸時代の代官所跡の発掘調査の現場でした。
持ち主は1538年4月20日、74歳で亡くなった和歌山市の願成寺、仏姫という尼僧です。
出土した入れ歯は、上あご用でツゲの一木彫、歯が左右4本づつあり、奥歯の噛む部分は平坦になっていたそうです。前歯は、女性用の義歯のためお歯黒が塗られていたのか、少し黒くなっていたとのこと。
しかも、奥歯の噛む蔓がすり減っており、実際に使われていたらしいことから、没年よりもかなり前に製作されたものということになります。
400年以上も昔、ということは戦国時代ということになります。
願成寺の言い伝えによると、仏姫という女性は生来器用なたちで、他の人の入れ歯を自作したこともあったそうですが、出土された入れ歯の仕上がりは、現代では再現不可のなほどの精密なものです。
これは木彫りに熟達した職人の手によるものとしか考えられません。
仏像彫刻などを行っていた仏師ではないかと考えられます。
そして、決して中央の寺院ではない紀州の寺の層が、このような入れ歯を使っていたということは、この時代、すでに入れ歯がかなり普及していたのではないかと考えられるのです。

日本でも、古来より人々は虫歯や歯槽膿漏などの歯の疾患に苦しんできたことが記録に残されていますが、中国の伝統的医学が根強かったために、歯を抜くという外科的な処置には消極的でした。
江戸時代中期以降になると、オランダ流の外科医術をはじめとする西洋医学の影響も見られ、シーボルトが持参した医療器具の中には、抜歯や口腔外科手術のものも含まれていたものの、近代歯科医学が日本に導入されるまでには長い時間が必要でした。
にもかかわらず、日本は独自に木床義歯の技術を独自に確立していたことになります。

木床義歯の製作技術

【種類別】入れ歯ができるまでのステップ全図解」という記事でも詳しく紹介しましたが、入れ歯を作るためには、患者のあごを正確に型取りすることが必要です。これを「印象採得」と言います。
当時の印象採得には、蜜蝋に松やに、白蝋、ごま油などを混ぜたものが用いられていました。
蜜蝋というのは、ミツバチが巣をつくる際に分泌するもので、蜜をしぼった後のハチの巣を煮沸することで採取できます。
こうして用意した蜜蝋の塊を湯で温めて、柔らかくし、口の中に入れ、あごの粘膜に押し付けて蝋型をとります。
柔らかさも調節できる蜜蝋は、こうした用途に非常に適していました。
しかも、ひとつの塊でとった型を上下のあごに分離するので、今でいう「咬合採得」も同時に行っているということになります。
ヨーロッパでは、最初に上下顎同時印象を行ったのは歯科医学の始祖と言われるPhilio Puffであるというのが常識になっていますが、じつに日本では、400年前に木床義歯の印象に蜜蝋による印象が行われていたということになります。
こうしてできた型から模型をつくり、それに適合していくようにツゲの木を彫刻していきます。
ツゲという素材は、上部で弾力があり、折れにくいという特長があります。
クシなどの材料として有名ですが、将棋のコマのような細工物にも使われています。
細かい入れ歯の調整は、食紅を用い、当たって痛いところを少しずつ削り、精巧に仕上げられていきました。
前歯には蝋石や動物の骨、象牙、人間の抜けた歯などが使われ、これらの人工歯は、ツゲの床部にはめ込まれて、前歯の横に穴を開け、三味線の糸で連結して固定されています。
仏姫のような女性の入れ歯の場合は、黒柿の木を使い、お歯黒をつけているように前歯を黒くしたと言います。

職人「入れ歯師」の誕生

仏師たちによる木床義歯の技術は、江戸時代になるとますます発達し、専門化して、「入れ歯師」という職業として定着していきました。
当初は手慰み程度だったようですが、仏像彫刻の注文が少なくなり、逆に「入れ歯を作ること」が生活の糧となってしまったのではないか、といわれているそうです。
木彫りの専門技術がルーツの彼ら入れ歯師は、宮廷や幕府に勤める口科医とは、まったく別の存在でした。
中には名人といわれる入れ歯師もいたそうで、有名な平賀源内などもそうした入れ歯師による入れ歯を使用していたと言われています。

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